いにしえの川崎大師
平安時代の開創から江戸時代を経て連綿と発展してきた「川崎大師」でしたが、昭和20年4月の川崎大空襲で境内の堂塔伽藍のほとんどを焼失してしまいました。しかし、そのような試練に立ち向かい、寺門信徒協力のもと数々の苦難を乗り越え、現在の繁栄を迎えることが出来ました。
このページは「川崎大師平間寺近現代史」の中から、旧諸堂伽藍の情報を集めて、当時の川崎大師の様子をまとめたものです。
江戸時代の川崎大師
川崎大師平間寺創建は1128年。藤原氏が奥州平泉に中尊寺金色堂を建立した4年後の事となります。平間時の草創期には開山主尊賢上人の縁により皇室の尊信を集めました。降って江戸時代、11代将軍徳川家斉公が公式参詣して以来、将軍家、御三家の帰依もあり、江戸から日帰り参詣の出来る関東屈指の霊場として庶民の間に信仰が広まりました。
本堂
天保5年(1834年)建立
この年は宗祖弘法大師1000年御遠忌の年に当たります。
昭和20年の空襲で焼失したのですが、本尊厄除弘法大師像は第43世高橋隆超大僧上の決断により、空襲の2日前に横浜の観音寺に疎開した後だったため事無きを得ました。
大正14年 お開帳法要で本堂前にての記念写真。
正式には大正13年に行われる予定でしたが、関東大震災の復興を待ち、翌14年に行われました。
本堂の規模は 間口24m 奥行き27mと当時としても広壮なものでした
昭和9年当時の境内の様子です。
本堂の左に並んで不動堂、再建された大本坊、右に見えるのは、大師が生んだ偉大な政治家、政友会総裁、法務大臣を歴任した鈴木喜三郎氏の銅像です。
山門
12年の工期を要して明治34年に完成
両妻入母屋破風総欅造り。規模は、間口18m奥行き6.2m、高さ20.4m仁王像が安置。初層外面には花鳥、飛龍、獅子、麒麟などの彫刻が施され、その建築の壮麗なこと彫刻の優美なこと関東一と称せられました。
現存すれば国宝級の建物と言われています。山門の施工者 棟梁木村新左衛門、彫刻 後藤正房。
昭和19年、お開帳奉修。
山門前での庭儀。
戦時中の人々の心を勇気つけたことでしょう。
仲見世からの山門
当時の仲見世の様子もわかります。
不動堂
明治23年建立
第39世隆健大僧正の代に建立された総欅造りの優雅なお堂。本尊は成田山新勝寺不動明王御分躰。
上の写真と比べて、お堂の後ろの回廊、お堂前の灯篭が増えています。
お開帳と赤札
お開帳とは、御戸帳(みとちょう)を開いて秘仏である御本尊を一定の期間特別に公開して盛大な供養を捧げ法要を修行してより多くの人々に出来るだけ親しく参拝できる機会を設け、ご本尊様の功徳にあずかろうとするものです。川崎大師平間寺では、10年目毎に大開帳が奉修され全国から多くの方々が訪れます。また大開帳では、「赤札」と言われるお守りが授与されます。「赤札」は弘法大師ご直筆と伝わる「南無阿弥陀佛」の六字名号を版にして、ご貫首様が精進潔斎のうえ祈願をこめて一体ずつ手刷りされる尊い「お守り」です。赤札は、朱札・朱符・紅札ともいわれます。朱は災難を除き幸福をよびこむめでたい色であるとともに、経典では“阿弥陀如来のお体は紅頗梨色(ぐはりしき・・・紅水晶色)にして大光明を放ち遍く十万世界を照し給う。”と説かれていますことから赤札は、紅色とされているのです。赤札の授与はいつあるかは誰にも知らされずご貫首の感得によって授けられるのが慣わしとなっています。次回、大開帳は平成16年に奉修されます。